診断名
2016年最初の症状は老眼かと思い、眼鏡を作る。2017年眼科受診。約3か月後にフォークト小柳・原田病の診断。
ここから2020年10月、50歳とらトラ母ちゃんが視覚障害者(手帳2級・年金1級)になるまでのお話をしようと思います。
通院・出費
病名がフォークト小柳・原田病と判明してから、診察の頻度は半年間は2週間に一度。その後は月に一度の。さらに認定の診断書を書いてもらうまでの1年半は2か月に一度のペースで通院していました。途中に再発が2回あり、その時は1週間に一度へ変更しました。
約3年以上治療したのですが視力が向上することはなく、炎症再発をさせないために検査・服薬は保険適用とはいえ数万円の出費をしなければならず、健康でいることが経済的にも一番だと改めて感じました。
強迫観念
少しずつ見えなくなる目。とらトラくんにいっぱい読んであげようと思った絵本は100冊以上、どうしたって読めないよ。さらに悪いのは絵本があることでとらトラ母ちゃんのメンタルが壊れそうになりました。だって読んであげたいのに読めない。
読み聞かせがいいことは知ってますが読み聞かせるために拡大して覚えて暗記して、まるで読んでるふりをしなくちゃいけないのです。そして、やめました!
どんなに世の中で良い!と言われていることも、とらトラ母ちゃんがイライラしてる方が悪影響だよって。絵本はきれいに断捨離され、読めないという強迫観念から解放されました。

困難の連続
視力を少しずつなくすことは、少しずつ出来ないことが増えていきます。
例えばバスの系統が重なるバス停。始発のバス停なら問題なく乗車できますが、途中乗車は視力がないと運転手さんに確認してからとなります。時刻表も拡大鏡やルーペで確認するのですが、天候や交通状況でそれも変化しますからね。
電光掲示板の呼び出し番号、大きな病院やフードコート、銀行なども口頭呼び出しが必要になってきます。認定を受けれる前でも沢山の困難に遭遇しました。
受診のとき付き添いがあれば良いのですが、とらトラ母ちゃんは息子同伴でなるべく一人で受診することを心に決めていました。甘えたらキリがない!自分で動けば助けが欲しいこと、自分で出来ることが分かるはず!
でも受診の帰りは仕事帰りのとらトラ父ちゃんがお迎えに来てくれて、本当に助かりました。長い診察時間、瞳孔を開いてまぶしい、そして長時間で一緒に疲れてるとらトラくんのベビーカーあり。雨や雪の日はとらトラ父ちゃんのお迎えは神でした。

最後に
今回は視覚障害者認定までの経緯をお話させていただきました。
見えていたものが、見えなくなる・見えづらくなるのはとても恐怖です。世界中には、私と同じような視覚障害になっている方が沢山います。
もしあなたの周りにとらトラ母ちゃんのような方がいて、手伝える余力のある方でしたら「何か手伝えることある?」と聞いてみてください。「大丈夫です。」と言われても、声を掛けられた方は覚えています。
経験談ですが、とらトラ母ちゃんも一人で白杖をついて視覚障害の機関へ行くことがありました。
その時、眩しくて地図が見えず困っていたところ中国人の女性の方が日本語で声をかけてくれました。
自分は逆の方向へ歩いていたらしく、詳しく丁寧に道を教えて頂きとても助かった事を鮮明に覚えています。名前も分かりませんが、親切にしてくれた方本当にありがとうございました。
何年経っても、心に残る出来事でした。思いやりを大切に、私も出来る範囲で手助けをしていきたいと思ってます。声を掛けるその勇気と優しさをお願い致します。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
とらトラ母ちゃんでした。